2017年2月10日金曜日

物欲の充足はどこまで行っても永遠に幸福感の充足を導かない(その3)

昨日からの続きで、幸せは案外近くにあるのではという話であった。
例えばもう既に配偶者という名前のパートナーが居る人は、その人に対して多くの共感を感じれたら、もうそれだけでその人生は、最高のものだと言い切って間違い無い。
別に配偶者という形式はなんでも良い、腐れ縁だろうが成り行きだろうが、人は共感を共に味わう友、仲間や同志、相方といったような相手が居ればいつでもどこでもどんな状況でも幸福感を感じることができる。
自分にとって運命を共にするような特定の相手が居たとしたら、もう人生のアガリは目の前と言えるかもしれない。

しかし自分にとっての相棒であるはずの人物が言う事、行う事、考え方、やり方、しぐさや癖が、いちいち気に入らない、共感できない、信じられない、失望して、我慢している。というのであれば、それはたぶん相手が自分に対して持っている感想も、そっくりそのまま同じなのだと思うのだが、それはなぜそうなるのだろうか。
そもそも苦手で価値観の遠い人間と惹かれあったりするわけないのに、なぜかそういう例というのは世の中に溢れかえっている。
それは相手や自分が人間的に心底腐っているからそうなるのだろうか?

私は確かに、こいつは本当に性根が腐っている、どうしようもない、と思うような相手と接したことは何度もあるが、しかし殆どの人はそうでは無い。
皆それぞれに良い人で、良い人であろうと努め、悩み、あがき、苦労して試行錯誤し、自分を律して、事あるごとに学ぼうとし、失敗や挫折を経験しながら日々、普通の生活を送っている。
それなのに、そういう、良い人と良い人がくっついて、最高の幸せが出来上がる、という方程式がなかなか成り立たない。
その初め確かにあった強い想いや結びつき、共感できる、同じにおいがする、安心できると感じた信頼感が、月日と共にヒビが入ったりする、その原因は、なんなのかと考えてみた。

幸せの始まりが”共有”、つまりは、お互いの中に”有るもの”を認め合うという作業だとするならば、不幸の始まりは”共無”、お互いの中に”無いもの”を求め合うということなのでは無いかと、私は肝心のそのパートナーさえ見つけていない身の上だが、そう思うのだ。
一言で言うと”無いものねだり”だ。

完璧な人など居ない、と良く言う。その通りだと思う。
一見なんでも持ちあわせていそうな人ということであれば、才能人が結集したテレビの中の世界などではよく見かける。
外見も良く、才能に溢れ、内面も充実してそうな人が、実際に本当に50年60年毎日生活を共にしていく中で、その通りすべて持ちあわせていたなんてことは、たぶん無いだろうと思う。

さてさて、まだ続きそうだ。
また明日お会いしよう。

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