2017年2月23日木曜日

父親の終活の苦悩の中に見た物質への依存その2

昨日からの続きである。
物質に思い出とか記憶を託しすぎないほうが良いと思うというような内容であった。

なんというか、名付けるならば”思い出コレクター”になってしまっているように見える。
実家の部屋を訪れると、家族の写真だとか、写真家の知人が撮った風景写真、画家の友人の描いた絵画、陶芸家の友人が作った作品、そういったものが、壁や棚を埋め尽くし、旅行先で買った物、撮った写真を飾っては、記念日とあらばまた別の品物を手にしてきて、それをまた家に飾る。
額縁に入れて壁にかけていないと”思い出”という記憶の殿堂に入った気がしないのかもしれないが、家そのものが記念品の坩堝と化している。
この父親の人生の記念の集大成のような品々を内包した家、という巨大な荷物を、俺だと思って大事にしてくれと言われてもそれは困る。

そして彼本人も、残された遺族から、そうやって”困る”と迷惑がられたく無いという気持ちと、自分にとって大事すぎる品物への気持ちの、板挟みに苦しんでいるようで、悩んだ末に自暴自棄とも取れるほど極端に物をばっさばっさ処分しはじめたりしていたかと思うと、また新しく壁を飾る額縁が増えたりもしていた。

彼のこの人生の最終段階まで来ての苦悩を見ても、物質、というものに心の重心を一度置いてしまうと、後々精神的な処理に非常に手こずるように思う。
物質は確かに後々まで残るものだが、それに頼りすぎると、まるで人生が、記念品集めのようになってしまうのでは無いか。
それは例えば”海に行って遊んだ時撮った写真を見るとあの時の楽しかった気持ちが蘇る”というような感覚を先取りしすぎて”何年後に見てもいい気分になるような良い思い出作りをするために海に行って遊んでいる姿の写真を撮りにいこう”というふうになってしまっているような感じだ。
その感覚の中では、未来の自分が主人公だ。

人は死ぬ間際に3パターンの行動をとるそうだ。
ひとつは、懺悔や後悔。
ひとつは、他者の記憶に残ることへの願望。
ひとつは、自分の人生が無駄ではなかったことの証明を望むのだそうだ。
父親は今まで主人公であった未来の自分が、もう居ないという問題に直面した今、関係者の記憶の中から、自分の存在が記念品という名のゴミと一緒に捨てられてしまう感覚に苦しんでいるのかもしれない。
しかし彼が彼の死後も永遠に残るものを望むのであれば、結局やはり物質の中に宿すのでは無く、今目の前に居る相手の心の中に見出すしか無いだろう。
未来の自分や、未来の相手に向けてではなく、今の自分が、今そこにいる目の前の相手の中で、記憶となってずっと生きていくんだという実感があれば、救われるはずだと思う。
それが見い出せなければ、たとえ彼の残した遺物が1000年後の人類に重要文化財に指定されようが、彼の残した書物が評価され歴史上の人物として何千年も語り継がれたとしても、なんの救いにもならない。
つまり可燃ゴミと記憶は別だから安心してもらいたいのだ。

私が形として残る物質から身軽でありたいと願う心理には、父親のそういう姿を見ているという事もあるからかもしれない。

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