2017年2月9日木曜日

物欲の充足はどこまで行っても永遠に幸福感の充足を導かない(その2)

昨日からの続きである。
ではちょっと想像を膨らましてみる。
今即席で考えた幼稚なシチュエーションだが、自分が、すごい資産家で、世界中のリゾート地にいくつも豪華な家を所有し、仕事をすると言えば一日一時間か二時間、パソコンに向かっていくつかの指示や株の売り買いを少しするだけで、一生遊んで暮らせるお金が自動的に生み出されるような、まあ仕事はなんでも良いのだが、とにかく盤石な生活がそこにあり、地位も名誉も才能も申し分なく、お金も時間も十二分に手に入れ、およそお金で実現できることはなんでも実現できる基盤を手に入れたとしよう。
そういう生活が、3ヶ月や1年ではなく、毎日毎日当たり前の感覚の中で揺るぎなく、3年、5年、10年、20年、50年、そして死ぬ瞬間まで続いたとして、それをもってこの人生は、幸せなものだったと結論付けて死ねるのかということを、リアルに想像してみた時に、この生活にはあらゆる物が揃ってはいるが、決定的に欠けていることがあると思う。
それが共感だ。

この生活自体には別に文句は無い。お金に不自由しない事や社会的に成功する事に何の不満も無い。
しかしそれがどんな生活であろうが、それを送る自分の近くに、共感を共にしてくれる人が居なければどうしても虚しい。
美しい海を見て綺麗だと思った時に、同じ気持ちを持っている相手が居なければ、その気持ちは宙を彷徨ったままだし、どんなに美味しい料理に舌鼓を打った所で、同じように感じている相手がそこに居なければ、ただ満ちるのは食欲ばかりだ。
世界中のどんな場所に出かけて行った所で、おしゃべりした内容が面白かったとか、見かけた猫がかわいかっただとか、空がすごく綺麗だったとか、結局はそういう事でしか人は共感できないし、むしろそれが出来るのならば、何も遠い場所まで出かけなくたって、今住んでいる家の中やその周辺をうろちょろするだけで十分だ。
あんな失敗をして落ち込んだとか、ちょっとした言い回しが可笑しくて笑いあっただとか、そういったひとつひとつの出来事を膨大に共有し、大きな思い出からふとした人情の機微まで、人生のログを積み重ねてシェアする相手が居なければ、ひたすらに高みに至るだけの不毛な道だ。
孤高という言葉があるが、別に高い必要は無い。高い所だろうが低い所だろうが中くらいの所だろうが、共感の無い生活には無限に湧き出すような充実感や安息感、そういった幸福感というようなものは、望めない。

翻って言ってみると、幸福というのは、思ったよりも遥かに身近に、落ちているのでは無いかと予想している。
努力を重ねて一歩一歩、もちろんそれは大切な事だが、そうやって長い時間と苦労をかけて登っていった遥かな高見のその向こうに、奇跡のように咲く一輪の花こそが、幸せなのだと思っていたら、一生高みを上り詰めるだけで終わってしまうかもしれない。

ああさらにまだまだ続きそうである。
なかなか書ききれないのでまた明日。

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